おうちの庭に祭壇と軽食会場を作り一日オープンハウスのような
形で行われなした。
食事はなんと羊を一頭丸焼きにして、(このオーブンも息子たちの手作り)参加した人たちのもちよりのおかずと
一緒にふるまわれました。
それはまるで綾さんがたくさんの人たちを自分の家に招き、ずっとやっていたパーティーのようでした。
私は祭壇におりんをもって行きました。
これは九州を旅したときにみつけたおりんで、普通のおりんとちょっと違いとても繊細な音色がします。
アメリカの人たちにはこんな風習はないでしょうが、祭壇の前でたくさんの人たちがこのおりんをならして
くれました。
綾さんからアメリカに滞在中、私はたくさんの書を教えてもらいました。自分が書きたいものすべてのお手本を書いて
もらい、にじみやぼかしをあえてつくったり、また書く紙まで作ってしまったり・・・私がこれまで教わってきたいわゆる
「お習字」というものとは全く違う自由な発想の書を学びました。
もっともっと教えてもらいたいことがいっぱいあったのに・・・。
そこには涙でなくたくさんの笑い声がありました。お別れの会という悲しく寂しい場所なのに、人々は楽しそうに
まるで綾さんを囲むようにして時間を過ごしていました。これが亡くなった人のまさに「生き様」なのかなと、
たくさんの人たちを招き、いつも楽しい時間を作ってきた綾さんだからこそこんなお別れ会ができたのではないか
と思いました。
私たちはみんなが帰った後、板垣家の家族と一緒に後片付けをしてホテルに戻りました。
夏でも夜にはひんやりとした空気がながれ、街灯一つない湖畔の道から空を仰げばそこには満点の星。
その星のひとつに綾さんはなってしまったのでしょうか・・・。
それにしても、私たちがここで暮らしていた28年前とまったく変わらない時間がここには流れているような気がしました。
東京という大都会であくせく働いてきた自分にとって、ゆったりと流れる時を楽しむようにして人生を過ごしているこの地
の人たちとであった時、本当に衝撃を受けたものでした。
どうやったら本当に豊かな人生を送ることができるのだろう・・。また私はこんなことを考えてしまいました。
綾さん あなたがそこにいなかったことだけが、ただただ寂しく悲しく思いました。
でもきっとどこかで見ていたでしょうね。みんなでつくったあなたのお別れの会を。そしてこれからも見ていてくださいね。