2014年 08月 18日
50年が経ちました
昨日8月17日は私たちの父、佐田啓二の命日でした。父が亡くなった日からちょうど50年。
当時小学校1年生だった私と、まだ2才になる前の弟、
そして母を残し父は交通事故で一瞬のうちにこの世を去りました。
当時父は映画を中心に俳優として活躍しており、家庭を持ち、
子供もでき、まさに人間として、男性として、父親として
充実した時を過ごしていた頃だったと思います。
38才という若さでした。
父の眠る北鎌倉の円覚寺は、以来私たちにとってはとても特別な場所となり、
何かにつけてはお墓参りをし、父と語り合って来ました。
昨日はこの連日の猛暑の中、朝は思ったより気温が低く、
これは父がお墓に私たちをよんでいるに違いないと86才になった母と、
娘たち二人を連れて車を走らせました。
会ったことのない「ジージ」は私の娘たちにはもっとも会いたい憧れの男性。
父のお墓は円覚寺の中でもかなり階段をあがらないと行かれない高い所にあるのですが、
86才の母は必ずこの階段を昇ります。
「早く迎えに来てよ、と言ったってももうこんなおばあさんじゃ誰だかわからないだろうけど」
といいつつ。
毎年のことながら、水をかけてもあっという間に乾いてしまうお墓に、
たくさんたくさん水をかけて来ました。

父を知る方がだんだん少なくなる今も、お目にかかる方から時折
「あなたのお父さんのファンだったのよ」と声をかけていただくことがあります。
ありがたいことだなーといつも思います。
今年も10月にこの円覚寺で「音語り・秋刀魚の味」を上演します。
私にとっての特別な場所で。
そのころはおそらく、すがすがしい秋の気候となっているはずです。
当時小学校1年生だった私と、まだ2才になる前の弟、
そして母を残し父は交通事故で一瞬のうちにこの世を去りました。
当時父は映画を中心に俳優として活躍しており、家庭を持ち、
子供もでき、まさに人間として、男性として、父親として
充実した時を過ごしていた頃だったと思います。
38才という若さでした。
父の眠る北鎌倉の円覚寺は、以来私たちにとってはとても特別な場所となり、
何かにつけてはお墓参りをし、父と語り合って来ました。
昨日はこの連日の猛暑の中、朝は思ったより気温が低く、
これは父がお墓に私たちをよんでいるに違いないと86才になった母と、
娘たち二人を連れて車を走らせました。
会ったことのない「ジージ」は私の娘たちにはもっとも会いたい憧れの男性。
父のお墓は円覚寺の中でもかなり階段をあがらないと行かれない高い所にあるのですが、
86才の母は必ずこの階段を昇ります。
「早く迎えに来てよ、と言ったってももうこんなおばあさんじゃ誰だかわからないだろうけど」
といいつつ。
毎年のことながら、水をかけてもあっという間に乾いてしまうお墓に、
たくさんたくさん水をかけて来ました。

父を知る方がだんだん少なくなる今も、お目にかかる方から時折
「あなたのお父さんのファンだったのよ」と声をかけていただくことがあります。
ありがたいことだなーといつも思います。
今年も10月にこの円覚寺で「音語り・秋刀魚の味」を上演します。
私にとっての特別な場所で。
そのころはおそらく、すがすがしい秋の気候となっているはずです。
by nakai_otf
| 2014-08-18 19:05